豊田氏(44E)投稿依頼
——————————-
例年ならば、高校野球シーズン真っ只中ですが、千工の成績をみていたら、
こんなのがありました。
昭和40年の夏の大会。
私がまだ入学する前の年です。
「甦る熱闘」からのコピーです。
刊行時は磯部高校の校長先生をされていたようです。
廣川先生には1年生の時に、電気法規でお世話になりました。
ゼンニンさんと呼ばれていましたが!
笹森先生は電気工事士の実習でお世話になりました。
もちろん高野連会長は影山校長(存在感ありました)。
その為、高野連事務局は本校電気科職員室に表札がありました。
1学期の法規の授業は10分ぐらいで後は自習が多かった気がします。
電気科実習室では大きな抽選用ガラガラのような容器に消しゴムと硬球をいれ、
よくまわしていました。
物がなかった時代だからでしょうか?
昭和43年には開局したての千葉テレビ放送(当時)の中継があり、その解説をされていて、
授業で、「俺の話はよく当たるだろう」とおっしゃっていました。
天台球場が出来た年でもあり、千工は順々決勝まで勝ち上がり、
ブラスバンド部員に、「勝ち進むのもいいが、毎回大変だね!悪いね。」と声をかけていただきました
準々決勝
代表決定戦(銚子商と本校が茨城での東関東予選に出場)
(著者、廣川善任(ヨシタカ)先生)
自分はなんとかあこがれの千葉工業に入学できたので、成績は最悪でも先生方はよく覚えています。
進級はぎりぎりだったか?
担任に母親と呼び出され、「このままでは留年の可能性がある」とまで言われています。
中学生の2~3年生のころ進路考えている時に小野満さんの自宅の火事(当時は千工卒業生であることは露知らず)や、高校野球の記事で新聞をにぎやかしていたことも記憶に残っています。
最近はあまり千葉工業に入ることに意義を感じないのかな?
少子化と進学率が大いに影響していると思います。
当時の進学率は10%そこそこ、現在は50%を越えています。
やはり進学に有利な普通科、それも当時とは違う数に増えた私立校があると思います。
それに伴い、商業含め職業高校の地番沈下は致し方がないでしょう。
廣川先生は磯部高校→船橋西高→1985(昭和60年4月)~1988年東海大学付学校属市原望洋高の校長さん(女子高から共学へ)をされていたようです。野球部を強くした礎を作られたのでしょうか?
わたしは担任以外あまり記憶が残っていません。
廣川先生のことは全く記憶にありませんが、東海大望洋は野球が盛んなようですね。