• カテゴリー別アーカイブ お知らせ
  • HからRへ

    平成の別れを惜しむ様な雨が降り続く4月30日です。
    いよいよ明日からは令和だそうです。
    千葉市支部では名簿の卒年の頭に昭和と平成を分けるために元号の記号を付けています。
    昭和30年機械卒ならS30Mです。
    平成5年に三支部で発足した当時は三支部で300名を超える会員が登録されていました。
    年々減少し、平成26年に三支部が合併し、100人超で新しく千葉市支部が発足しました。
    本日で平成は終わりますが、残念ながらHを付ける平成卒の会員は1名もいません。
    来年卒からは令和となりRを採用しますが、さて、現在の平均年令77.5歳、存続が危ぶまれます。
    現在、65歳以上となる方はS47卒以上でしょうか、千葉市支部が令和でも継続出来る様、是非ともご加入を検討していただけたらとお願い申し上げます。


  • 千葉工業同窓会報11号

    まだ本部ホームページで同窓会会報を公開する以前の平成19年頃、千葉市西支部当時にコツコツと会報をスキャナーで取り込みPDF化して創刊号から10号までと15号は西支部当時から継続して、ここで公開していましたが、11号から14号が取り忘れていました。
    16号以降は特にパスワード制限無く、本部ホームページで公開されています。
    ※当サイトでは検索ロボットからの個人情報保護のため、パスワード管理をしています。
     閲覧にはユーザID[chikou]パスワード[chiba]を入力して下さい。

    平成12年(2000)3月1日発行 同窓会報11号

    1号から11号及び15号はタブメニュー「千工沿革」-「同窓会報」からご覧下さい。

    また12号から14号は随時作成して行く予定です。本部ホームページと併せて創刊号から全てご覧いただける様に致します。

    旧西支部会報もご覧いただけます。
    ※34号まで公開中です。「書庫」-「旧千葉市西支部会報」


  • 平成31年度6期版会員名簿

    千葉市支部平成31年度6期の会員及び役員名簿[PDF]が出来ました。
    タブメニー「千葉市支部紹介」-「会員・役員名簿」からご覧下さい。
    簡易版には氏名と卒年のみです。
    詳細版には住所や電話番号も含まれていますが、こちらは一般非公開としています。
    閲覧ご希望の会員の方は「管理人へ連絡」からご連絡をお願い申し上げます。


  • 平成最後の総会報告

    平成31年度の定期総会を皆様のご協力ご支援により、無事開催することが出来、深く感謝申し上げます。
    各議案も会員の賛成をいただき、承認されました。
    懇親会も盛り上がり、大盛況で開催出来、ご来賓の方々、会員の方々、ありがとうございました。
    雨予報でしたが、総会終了まで雨は降らず、傘なしで帰ることが出来ました。
    令和最初の総会では嶋村氏(30E)のご本人予告で「玉すだれ」の公開があります。次年度も多くの会員皆様のご出席をお願い申し上げます。

    写真は大橋氏(54E)撮影です。ホームページでは一部ですが、縮小して公開致します。


  • 第6回定期総会開催のお知らせ

    千葉市支部第6回定期総会を開催致します。
    会場は例年通り、ホテルプラザ菜の花です。
     期 日 平成31年4月14日(日)
      受付開始時間 13:30
      総 会 14:00
      懇親会 15:15
      閉 会 17:15
     会 場 ホテル・プラザ菜の花
     交 通 JR本千葉駅徒歩5分
         モノレール県庁前徒歩1分
     地 図
      

    少し早めに訪れて、港町校舎跡地の見物は如何でしょう?
    本千葉駅から徒歩8分です。

      


  • 新元号が発表になりました。

    5月1日0時に平成から新元号「令和」になります。
    同窓会の書類には元号が用いられているのが多数あります。
    今後は元号だけでは昭和がメインの支部では年がよく分からないと思います。
    西暦を併記していきたいと思います。

    4月4日(木)に総会前の準備委を蘇我コミュニティセンターで開催を致します。
    名札等の作成致しますので、まだ行事参加調査票の提出をされていない方は早急に投函をお願い申し上げます。


  • 歴博リニューアルオープン

    皆さんも一度は訪れたことがあると思いますが、佐倉城址に建つ国立歴史民族博物館が開館以来36年ぶりにリニューアルしました。

    国立歴史民族博物館

    全館見学するには一日掛かると思いますのでお弁当持参で行くのが良いのかなと思います。
    博物館前の芝生でのんびりするのも良いでしょう。
    これからは花見、桜が終わると、姥が池側の菖蒲園で菖蒲が咲きます。

    佐倉城址公園のさくら

    佐倉城址公園の菖蒲

    佐倉城址公園を抜けると別館の「くらしの植物苑」もありますので、寄ってみるの良いでしょう。


  • 会報発送委員会

    明日8日、会報「ちばし支部だより」10号の発送作業を行います。
    会報に含め、4月14日(日)開催の総会の資料なども送付致します。
    また来期行事参加アンケートや年会費払込票も送付致します。
    今年度からはハガキから封書による返送となりますので、お間違い無い様お願い申し上げます。
    また、会員の皆様には会費及び総会懇親会会費の振り込みをお忘れなくお願い申し上げます。
    支部活動へのご寄付も賜っておりますので、こちらも宜しくお願い申し上げます。


  • 小林多津夫の木

    本校のグラウンドの片隅に一本のツバキの木があるそうです。
    そのツバキの木の名前が「小林多津夫の木」と名付けられているとのこと。
    管理人世代の後のことなので知りませんでしたが、本校を撮影舞台とした映画「スクール・ウォーズHERO」に映っているとのことで、資料などが南総支部H氏より送られています。

    「スクール・ウォーズHERO」の件は同窓会報15号に記載されています。

    このツバキの木の謂われだそうです。

    記事一部拡大

    彼は3年生のとき急逝したため卒業生名簿には記載されていません。
    この木、当時の彼のS57EBクラスメイトが植樹したとのことです。
    健在であれば57歳、ご冥福をお祈り申し上げます。


  • 幹事会開催

    昨日27日、蘇我コミュニティセンター講習室3にて幹事会が開催されました。
    出席幹事は15名、3時間超、支部長・本部会長から本部の状況説明があり、支部として来期第6期の総会に向けての話し合いが行われました。
    幹事の皆様、長時間の会議、お疲れ様でした。


  • 君待橋と母校

    昨日、「千葉市歴史散歩のビデオを観たよ」と南総支部長谷川氏より君待橋に関する資料が送られて来ました。
    整理しましたので、ご紹介致します。

    さて、長年、君待橋の道標が母校と一緒に彷徨していたことはご存じのことと思います。
    現在は母校から市へ返還されていますが、寒川-検見川-津田沼-生実と転々としました。
    なぜ母校と共にしたのかは分かりませんが、平成11年に市に戻されました。
    寒川の港校舎移転と共に連れて行かれたのでしょうか。

    母校は千葉商業学校(現・県立千葉商高)の跡地に昭和10年に開校しました。

    跡地は現在は君待公園です。

    同窓会が建立した記念碑です。一時工事で撤去されていましたが、現在は復帰しています。

    この地から海側へ進み、大橋(旧寒川大橋、現在は国道357号線が寒川大橋となっています。)南側の港町交差点側に君待橋之碑が建立されています。
    道標もこの地へ戻りました。

    碑の裏に由来が記載されています。

    戻された道標です。

    返還式でしょうか?

    10号同窓会報に写真が掲載されています。
    千工同窓会報はこのホームページで1~10号、15号はご覧いただけます。(メニュー[千工沿革]-[同窓会報])

    君待橋に関しては南総支部会報で取り上げていた様です。
    南総だより19号(S58.7.8)

    南総だより112号(H26.7.11)

    君待橋の由来(フジサンケイリビング編京葉散歩4千葉市より)
    その一
    その昔(不明)、この橋のかたわらに美しい乙女が住んでいて、川をへだてた向かい側の村の若者と恋に落ち、二人は橋のたもとで恋を語り合ったが、ある日、大雨のため橋が流されてしまいました。娘が放心して対岸をみつめている姿を見た若者は、泳ぎ渡ろうと激流に飛び込んだが、みるみる水中に姿を没した。娘は救うに救えず若者の後を追って濁流へ身を投じた。と言うお話。

    その二
    治承4年(1180)、千葉常胤とその一族が、安房から北上してきた源頼朝をこの橋に迎えたが、頼朝が橋の名前をきいたとき、常胤の六男胤頼「見えかくれ八重の潮路を待つ橋や渡りもあえず帰る舟人」とよみ応えた。と言うお話。

    その三
    長徳元年(992)、藤原実方(平安時代中期の貴族・歌人)の歌で、彼が陸奥国に向かう途中に里人に橋の名を問い「寒川や袖師ヶ浦に立つ煙君を待つ橋身にぞ知らるる」と詠んだ。と言うお話。
    ※当時、西国から東国への交通路は荒れた武蔵国を避け、相模国を抜けるか、東京湾から上総国に上陸するのが主でした。日本武尊もそうですね。そう言うことで市原市付近には土着豪族が西国を真似た古墳が多い様です。

    丹後堰
    千葉氏の家臣だった丹後布施氏、千葉氏滅亡後に土着した豪族で、江戸時代に寒川村の名主でした。毎年、干ばつに悩まされる周辺農民を救うために、慶長18年(1613)、に佐倉藩主、土井利勝の許しを得て私財を投じ都川の水を分流させるため土木計画に着手。
    都川の星久喜と矢作の中間に堰を築いて分流させ、大学病院のガケ下を回って亥鼻山のふもとを通り、寒川、今井方面まで長さ約5km半の丹後堰を完成させました。

    千葉支部総会会場、ホテルプラザ菜の花からも間近ですので、母校記念碑と君待橋之碑、総会前後に訪れてみては如何でしょう。