軍都の遺構巡りです。
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新京成沿線健康ハイキング
今日は青空、新京成電鉄が開催をしている「新京成沿線健康ハイキング」に参加をして来ました。
今回のコースは第73回コースで期間設定コースです。
期日指定コースのときは駅前の公園などでスタート受付をしてからですが、期間設定コースは新京成の駅やホームページに置いてあるコースマップを身ながら自由スタートです。
今回のスタート駅は新京成新津田沼駅。津田沼母校があった地です。
イトーヨーカ堂口から出て、津田沼一丁目公園に寄りました。
ここには母校の記念碑が同窓会の手で建立されています。
記念碑を拝み、スタートし、11kmを歩き、無事に高根公団駅にゴールをしました。
3月7日(木)まで開催をしています。久し振りに訪れてみては如何でしょう。
後日、ビデオで紹介したいと思います。
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君待橋と母校
昨日、「千葉市歴史散歩のビデオを観たよ」と南総支部長谷川氏より君待橋に関する資料が送られて来ました。
整理しましたので、ご紹介致します。さて、長年、君待橋の道標が母校と一緒に彷徨していたことはご存じのことと思います。
現在は母校から市へ返還されていますが、寒川-検見川-津田沼-生実と転々としました。
なぜ母校と共にしたのかは分かりませんが、平成11年に市に戻されました。
寒川の港校舎移転と共に連れて行かれたのでしょうか。母校は千葉商業学校(現・県立千葉商高)の跡地に昭和10年に開校しました。
同窓会が建立した記念碑です。一時工事で撤去されていましたが、現在は復帰しています。
この地から海側へ進み、大橋(旧寒川大橋、現在は国道357号線が寒川大橋となっています。)南側の港町交差点側に君待橋之碑が建立されています。
道標もこの地へ戻りました。
10号同窓会報に写真が掲載されています。
千工同窓会報はこのホームページで1~10号、15号はご覧いただけます。(メニュー[千工沿革]-[同窓会報])
君待橋に関しては南総支部会報で取り上げていた様です。
南総だより19号(S58.7.8)
君待橋の由来(フジサンケイリビング編京葉散歩4千葉市より)
その一
その昔(不明)、この橋のかたわらに美しい乙女が住んでいて、川をへだてた向かい側の村の若者と恋に落ち、二人は橋のたもとで恋を語り合ったが、ある日、大雨のため橋が流されてしまいました。娘が放心して対岸をみつめている姿を見た若者は、泳ぎ渡ろうと激流に飛び込んだが、みるみる水中に姿を没した。娘は救うに救えず若者の後を追って濁流へ身を投じた。と言うお話。その二
治承4年(1180)、千葉常胤とその一族が、安房から北上してきた源頼朝をこの橋に迎えたが、頼朝が橋の名前をきいたとき、常胤の六男胤頼「見えかくれ八重の潮路を待つ橋や渡りもあえず帰る舟人」とよみ応えた。と言うお話。その三
長徳元年(992)、藤原実方(平安時代中期の貴族・歌人)の歌で、彼が陸奥国に向かう途中に里人に橋の名を問い「寒川や袖師ヶ浦に立つ煙君を待つ橋身にぞ知らるる」と詠んだ。と言うお話。
※当時、西国から東国への交通路は荒れた武蔵国を避け、相模国を抜けるか、東京湾から上総国に上陸するのが主でした。日本武尊もそうですね。そう言うことで市原市付近には土着豪族が西国を真似た古墳が多い様です。丹後堰
千葉氏の家臣だった丹後布施氏、千葉氏滅亡後に土着した豪族で、江戸時代に寒川村の名主でした。毎年、干ばつに悩まされる周辺農民を救うために、慶長18年(1613)、に佐倉藩主、土井利勝の許しを得て私財を投じ都川の水を分流させるため土木計画に着手。
都川の星久喜と矢作の中間に堰を築いて分流させ、大学病院のガケ下を回って亥鼻山のふもとを通り、寒川、今井方面まで長さ約5km半の丹後堰を完成させました。千葉支部総会会場、ホテルプラザ菜の花からも間近ですので、母校記念碑と君待橋之碑、総会前後に訪れてみては如何でしょう。
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千葉市歴史散歩其の三の二
60年前は海だったところを歩きました。
千葉市役所庁舎は2020年から建替が始まります。
現庁舎を記念撮影して来ました。
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千葉市歴史散歩其の三の一
寒川校舎跡碑が登場します。
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幹事会開催のお知らせ
平成30年度最後の幹事会を開催致します。
相談役、顧問を除く役員の方はご参集願います。期日 平成31年2月27日(水)13時~
場所 蘇我コミュニティセンター
蘇我駅西口徒歩3分
主な議題 総会の件以上
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千葉市歴史さんぽⅡ
京成千葉中央駅からJR本千葉駅、亥鼻公園、千葉大医学部と抜け、青葉の森公園、千葉寺(せんようじ)と巡りました。
青葉の森公園は元農林省畜産試験場や県立千葉寺(ちばでら)球場があった地です。
母校の高校野球応援などで訪れたことのある方も多いのかなと思います。
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新京成電鉄と津田沼校舎
下記の写真の撮影日時は不明です。多分昭和35年頃かなと想像します。
母校の上に京成電鉄第二工場があります。新京成が京成津田沼乗入れのため直線にし、二代目(昭和28年開業)新津田沼駅(藤崎駅)が見えます。
初代(昭和22年開業)、三代目(昭和36年開業)の新津田沼駅が見えないのと、二代目が見えるので、昭和28年から35年の間でしょう。
昭和27年の地図です。新京成が開業した当時の初代新津田沼は国鉄津田沼寄りだったそうです。
新京成の客をごっそり京成津田沼に運ぶ計画だった様です。
しかし、国鉄津田沼駅より離れたために客が減ったのでしょう、再度三代目新津田沼駅を造り、こちらの路線は終着駅としました。
二代目新津田沼駅から駅名変更した藤崎駅(廃駅)があります。
松戸方面からの下りに乗ると「新津田沼行き」と「京成津田沼行き」があり、間違う方も多かったらしく、昭和43年、新線を廃止して現在の路線にし、四代目新津田沼駅となったそうです。
現在は生実校舎跡地を抜けています。津田沼校舎が生実に移転したことで、いろいろなことがありました。移転後にすぐ路線の変更があったのですね。
現在は新京成路線上にたくさんの団地があり、四代目新津田沼駅での乗降は多いです。
客の7割はここでの乗降です。そんなことで、直線にした当時は乗換が不便で客が大幅に減ったのでしょう。
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名簿案内
皆様のご自宅に名簿作成購入の案内ハガキが届いていると思います。
ネットでも手続き可能です。送られて来た往復葉書「往信」面に記載された「仮ID」を入力し、送信ボタンをクリツクします。
その後の操作は画面の指示に従って入力や変更などの手続きをして下さい。