千葉市の城めぐり・土気城

神亀年間(767年~770年)に鎮府将軍大野東人が蝦夷に対する備えとして「金城」あるいは「貴船城」と呼ばれる城砦を築いたのがその始まりとされていますが、長享2年(1488年)小弓公方足利氏の家臣中野城主酒井定隆が土気城を築いて土気酒井氏の居城となりました。
天文7年(1538年)国府台で関東征服を掛けた戦いで小弓公方足利義明が戦死をすると、酒井氏は北条氏、上杉氏、北条氏、里見氏と主君を変遷とし、最後は北条氏側として、天正18年(1590年)秀吉の小田原攻めにて滅亡しました。
そして土気城は廃城となりました。子孫は重臣富田彦兵衛の努力により徳川家で950石の旗本として大阪の陣などで仕えました。子孫の墓は土気城善勝寺曲輪と呼ばれた善勝寺内にあります。定隆などの墓は土気から大網季美の森へ向かう市道でヌーヴェルゴルフ倶楽部金谷郷コース手前の左側、城域西部の地に墓碑が建っています。
また、善勝寺は酒井定隆が入る前は真言宗でしたが、ある日、東京湾で同じ船に乗り合わせた浜野本行寺の僧日泰上人が、荒れる海を読経により鎮めたことに深く深く帰依し、「自分がもし将来自分が一国一城の主となったら領内の民をみな法華宗に帰依させよう」と自領内を法華経に改宗させた「上総七里法華」と言われています。
江戸時代初期には「不受不施」を唱え、幕府に取り締まられ破却された寺も多くあります。
浜野本行寺には日泰上人のお墓が本堂前に残っています。
歩いていたら100歳になると言うお婆さんに声を掛けられ、善勝寺裏に滝があり、精神病が滝の水を飲んだら直ると言うので、「昔はたくさんの気狂いが来た」と申されていました。
大網の南玉不動尊の滝かも知れません。

土気駅→土気城跡→土気城主墓碑

土気城跡など


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