生実町の歴史
大百池(おおどいけ)西側の高台に室町時代の初め、応永年間に千葉介兼胤の弟、原四郎胤高が居城し以来、小弓(おゆみ)城(小弓御所)として栄えましたが、永正14年(1517)、足利義明に攻め落とされました。
大百池と小弓城跡の間には八剣神社があります。
天文7年(1538)10月、小弓城主義明と房州里見氏との連合軍は、北条氏綱の軍勢と市川国府台で関東征服を賭けて戦ったが、義明は戦死し、戦い敗れて小弓城は廃城となった。
北条氏に加勢した旧小弓城主の原氏は、この地に復帰、新しい城を北方約1キロの重俊院周辺の台地に移し、生実城と名付けました。以後天正18年(1590)、原胤栄(たねあき)が秀吉に滅ぼされるまでの52年間、原氏が統治をしました。
近くには宅地造成時に発見された大覚寺山古墳、千葉市埋蔵文化財調査センターもあり、どちらも無料開放されています。
生実城跡には寛永3年(1626)に家康の家臣森川氏俊の三男である森川出羽守重俊が初代生実藩1万石として封ぜられ、旧生実城の一部を陣屋に使用、明治維新まで240年間、13代にわたって統治をした千葉市内では唯一の大名です。
初代重俊は二代将軍秀忠に仕え老中をつとめましたが、寛永9年(1632)、秀忠死去のさい49歳で殉死しました。重俊の子、重政がその霊を弔うために重俊院(ちょうしゅんいん)を建立しました。
重俊院下の弁天池は陣屋の外堀跡です。
重俊院は昭和49年(1974)12月31日早朝に出火、本堂を全焼し、森川氏代々の位牌は灰となってしまいました。現在の本堂奥に歴代の見事な墓碑が並んでいます。
大百池から小弓城
生実城跡