[母校にあった君待橋道標の歴史]
長年、君待橋の道標が母校と一緒に彷徨していたことはご存じのことと思います。
現在は母校から市へ返還されていますが、寒川-検見川-津田沼-生実と転々としました。
なぜ母校と共にしたのかは分かりませんが、平成11年に市に戻されました。
寒川の港校舎移転と共に連れて行かれたのでしょうか。
母校は千葉商業学校(現・県立千葉商高)の跡地に昭和10年に開校しました。
同窓会が建立した記念碑です。一時工事で撤去されていましたが、現在は復帰しています。
この地から海側へ進み、大橋(旧寒川大橋、現在は国道357号線が寒川大橋となっています。)南側の港町交差点側に君待橋之碑が建立されています。
道標もこの地へ戻りました。
10号同窓会報に写真が掲載されています。
千工同窓会報はこのホームページで1~10号、15号はご覧いただけます。(メニュー[千工沿革]-[同窓会報])
君待橋に関しては南総支部会報で取り上げていた様です。
南総だより19号(S58.7.8)
君待橋の由来(フジサンケイリビング編京葉散歩4千葉市より)
その一
その昔(不明)、この橋のかたわらに美しい乙女が住んでいて、川をへだてた向かい側の村の若者と恋に落ち、二人は橋のたもとで恋を語り合ったが、ある日、大雨のため橋が流されてしまいました。娘が放心して対岸をみつめている姿を見た若者は、泳ぎ渡ろうと激流に飛び込んだが、みるみる水中に姿を没した。娘は救うに救えず若者の後を追って濁流へ身を投じた。と言うお話。
その二
治承4年(1180)、千葉常胤とその一族が、安房から北上してきた源頼朝をこの橋に迎えたが、頼朝が橋の名前をきいたとき、常胤の六男胤頼「見えかくれ八重の潮路を待つ橋や渡りもあえず帰る舟人」とよみ応えた。と言うお話。
その三
長徳元年(992)、藤原実方(平安時代中期の貴族・歌人)の歌で、彼が陸奥国に向かう途中に里人に橋の名を問い「寒川や袖師ヶ浦に立つ煙君を待つ橋身にぞ知らるる」と詠んだ。と言うお話。
※当時、西国から東国への交通路は荒れた武蔵国を避け、相模国を抜けるか、東京湾から上総国に上陸するのが主でした。日本武尊もそうですね。そう言うことで市原市付近には土着豪族が西国を真似た古墳が多い様です。
丹後堰
千葉氏の家臣だった丹後布施氏、千葉氏滅亡後に土着した豪族で、江戸時代に寒川村の名主でした。毎年、干ばつに悩まされる周辺農民を救うために、慶長18年(1613)、に佐倉藩主、土井利勝の許しを得て私財を投じ都川の水を分流させるため土木計画に着手。
都川の星久喜と矢作の中間に堰を築いて分流させ、大学病院のガケ下を回って亥鼻山のふもとを通り、寒川、今井方面まで長さ約5km半の丹後堰を完成させました。
千葉支部総会会場、ホテルプラザ菜の花からも間近ですので、母校記念碑と君待橋之碑、総会前後に訪れてみては如何でしょう。