長雨から解放された本日は快晴。
JR神田駅から東京メトロ南千住まで歩きました。
なんでメトロ南千住かと言うとJRより安いです。
メトロ南千住→茅場町→西船橋→JR新検見川 510円
JR南千住→JR秋葉原→JR新検見川 650円
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南総だより128号

全12ページの南総だより128号があります。
千葉市支部報の編集委員に携わっている関係で毎号入手し、毎号楽しく拝見しています。
なんと128号です。年3回の発行とは凄いです。
支部創立が昭和51年(1976)3月7日と言うので今年で43周年です。
凄い歴史ですね。
中身の濃い記事が並んでいます。南総編集委員皆様の努力には頭が下がります。
少しは見習わなければと思う次第です。
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ちばし支部だより
本日は朝から冷たい雨が降ったり止んだりで、いつもの花見川散歩も中止。
と言うことでサイトの更新をしていました。
ここのサイトでは過去に発行された「ちばし支部だより」が読めます。
「千葉市支部紹介」→「ちばし支部だより」
現在11号まで発行されています。
ブラウザで表示されるサイズがまちまちと言うことで統一しました。
それとタブに表示される文字が文字化け(+*\>4#”6などと表示)をしていたものもありました。
これはPDFのタイトル文字が文字化けを起こしていたからです。
これは文字コードが現在はUTF-8ですが、以前はShift-JISで作成していたからです。
以前のPDFは会報1枚1枚をスキャナーで取り込み画像にし、それをPDFに変換をしていました。
現在は印刷会社がAcrobatで作成していますので、PDFで編集長に送られて来ます。
PDFの編集は有料のAcrobatが無いと出来ませんが、簡単なタイトルの編集などは無料のPDFツールで可能です。
CubePDF Utility
これでタイトルを修正をしたので、タブに正常に表示される様になりました。
宜しかったらご覧下さい。
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南総支部リンク外しました。
南総支部のFacebookですが、昨年7月以降更新がされていませんので、ブックマークから削除をしました。
何らかの形で復活した時点で戻すこととします。
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千葉市の城めぐり・大椎城
大椎城(おおじじょう・おおじいじょう)
土気のチバリーヒルズ裏にある戦国時代の城跡です。
平安時代末期、上総介平忠常が築城し、大治元年(1126)6月1日、忠常の曾孫・常兼の嫡子、常重が大椎城から新たに亥鼻城を築城し移りました。
暫くは千葉氏の支城とし残りました。
この1126年6月1日を千葉市が千葉開府の日としています。2026年は千葉開府900年です。

15世紀中頃には、土気の酒井氏の支城となり、酒井氏滅亡により廃城となりました。
現在は私有地ですが、荒れて、地元の方に「中は危ないよ」と言われましたが、入口らしいところがあり、入ってみました。以前には案内板もあった様ですが、現在は外されて見当たりませんでした。
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千葉市の城めぐり・土気城
神亀年間(767年~770年)に鎮府将軍大野東人が蝦夷に対する備えとして「金城」あるいは「貴船城」と呼ばれる城砦を築いたのがその始まりとされていますが、長享2年(1488年)小弓公方足利氏の家臣中野城主酒井定隆が土気城を築いて土気酒井氏の居城となりました。
天文7年(1538年)国府台で関東征服を掛けた戦いで小弓公方足利義明が戦死をすると、酒井氏は北条氏、上杉氏、北条氏、里見氏と主君を変遷とし、最後は北条氏側として、天正18年(1590年)秀吉の小田原攻めにて滅亡しました。
そして土気城は廃城となりました。子孫は重臣富田彦兵衛の努力により徳川家で950石の旗本として大阪の陣などで仕えました。子孫の墓は土気城善勝寺曲輪と呼ばれた善勝寺内にあります。定隆などの墓は土気から大網季美の森へ向かう市道でヌーヴェルゴルフ倶楽部金谷郷コース手前の左側、城域西部の地に墓碑が建っています。
また、善勝寺は酒井定隆が入る前は真言宗でしたが、ある日、東京湾で同じ船に乗り合わせた浜野本行寺の僧日泰上人が、荒れる海を読経により鎮めたことに深く深く帰依し、「自分がもし将来自分が一国一城の主となったら領内の民をみな法華宗に帰依させよう」と自領内を法華経に改宗させた「上総七里法華」と言われています。
江戸時代初期には「不受不施」を唱え、幕府に取り締まられ破却された寺も多くあります。
浜野本行寺には日泰上人のお墓が本堂前に残っています。
歩いていたら100歳になると言うお婆さんに声を掛けられ、善勝寺裏に滝があり、精神病が滝の水を飲んだら直ると言うので、「昔はたくさんの気狂いが来た」と申されていました。
大網の南玉不動尊の滝かも知れません。土気駅→土気城跡→土気城主墓碑
土気城跡など
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千葉市の城めぐり・生実城
生実町の歴史
大百池(おおどいけ)西側の高台に室町時代の初め、応永年間に千葉介兼胤の弟、原四郎胤高が居城し以来、小弓(おゆみ)城(小弓御所)として栄えましたが、永正14年(1517)、足利義明に攻め落とされました。
大百池と小弓城跡の間には八剣神社があります。
天文7年(1538)10月、小弓城主義明と房州里見氏との連合軍は、北条氏綱の軍勢と市川国府台で関東征服を賭けて戦ったが、義明は戦死し、戦い敗れて小弓城は廃城となった。
北条氏に加勢した旧小弓城主の原氏は、この地に復帰、新しい城を北方約1キロの重俊院周辺の台地に移し、生実城と名付けました。以後天正18年(1590)、原胤栄(たねあき)が秀吉に滅ぼされるまでの52年間、原氏が統治をしました。
近くには宅地造成時に発見された大覚寺山古墳、千葉市埋蔵文化財調査センターもあり、どちらも無料開放されています。
生実城跡には寛永3年(1626)に家康の家臣森川氏俊の三男である森川出羽守重俊が初代生実藩1万石として封ぜられ、旧生実城の一部を陣屋に使用、明治維新まで240年間、13代にわたって統治をした千葉市内では唯一の大名です。
初代重俊は二代将軍秀忠に仕え老中をつとめましたが、寛永9年(1632)、秀忠死去のさい49歳で殉死しました。重俊の子、重政がその霊を弔うために重俊院(ちょうしゅんいん)を建立しました。
重俊院下の弁天池は陣屋の外堀跡です。
重俊院は昭和49年(1974)12月31日早朝に出火、本堂を全焼し、森川氏代々の位牌は灰となってしまいました。現在の本堂奥に歴代の見事な墓碑が並んでいます。大百池から小弓城
生実城跡
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集合写真
ハイキングの集合写真です。公開サイズはリサイズ(800×533)しています。
原画は6000×4000(9.53MB)です。原画希望の方はメール連絡をお願い致します。
参加者には代表世話人より、後日、報告書とプリント版を同封でお届け致します。

過去のハイキング写真はメニュー「書庫」>「ハイキング」からご覧になれます。
こちらは1920×版です。
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本部ハイキング参加
昨日、好天に恵まれた大山(おおやま)阿夫利(あふり)神社参拝に参加をしました。
申込み15名、参加者12名(1名寝坊で不参加)で千葉NTT前を6時半過ぎに出発、海浜幕張で2名を拾い、総勢14名でのハイキングとなりました。
途中、東名などの渋滞で現地には10時半過ぎに到着、ケーブルカーを利用し、阿夫利神社まで進ました。10時32分到着、これからコマ参道を抜けて、ケーブル下まで上ります。

参拝を済ませ、集合写真(後日公開)を撮影、いよいよ登山です。山頂は断念し「見晴台」に行きました。

阿夫利神社まで下山し、ケーブルで下る組と大山寺経由で徒歩下山する組に分かれ、ケーブル下14時集合。大山寺です。

仲見世が並ぶ、コマ参道を抜け、バスに戻り、臨時徴収をし、コンビニでアルコールを仕入れ、各々楽しく飲みながら千葉駅に5時半に到着しました。
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大山(おおやま)ハイキング催行決定
11月16日(土)本部ハイキングの大山ハイキングは催行されます。
大山山頂への登山は年齢的に厳しく、断念していただく方向です。
大山阿夫利神社参拝後に見晴台往復を予定しています。
往路はケーブルカー、復路は時間的に早ければ大山寺まで徒歩の予定です。
遅い時はケーブルカー利用となります。

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旭市を歩く
旭市を歩いて来ました。
木曽義仲19代目の木曽義昌が治めた町です。
北総支部です。
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九十九里町を歩く
雲ひとつ無い6日に千葉駅から九十九里鐵道バス九十九里ライナー号に乗って九十九里町へ歩きに行きました。
人口16千人の九十九里町は外房支部です。
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通行止め解除
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花見川サイクリングロード通行止め
いつも歩きに行く花見川サイクリングロードが花見川大橋先で通行止めになっています。
10月25日の台風21号で護岸が崩壊し、以来、通行止めとなっています。
26日に訪れたときにはロープに通行止めと書かれていましたが、通り抜ける方が多いので、バリケードにしたのかも知れません。
30日にはバリケードになっていましたが、今日もバリケード横から通り抜ける輩がいました。規制は守りましょう。
この先を行くと花島観音ですが、管理人はUターンしました。当分、観音様お参り中止です。カラーコーンで囲まれたところが崩壊地点です。道そのものに被害はありません。























