生実移転後、初の文化祭です。
現在は千工祭となっていますが、いつ頃から千工祭となったのかは管理人は知りません。
当時の写真はこちらから
千葉県立千葉工業高等学校同窓会千葉市支部
第12回定期演奏会
33周年記念が終わり、小野満先輩にご挨拶を頂いた定期演奏会です。
影山校長にも挨拶を頂いたかどうか?記憶になくご存知でしたら、
どなたか書き込んでください。
この年から、雑感に顔写真を入れることにしました。
またチケットを販売したような?
2014年の夏の大会
この年は話題の2年生のエース松下君が頑張っていました。
翌年(2015年)3年生になって、期待の松下君はエースで4番バッターでしたが故障していたのか?
4番でライトを守っていました。監督は打者として期待していたのでしょう?
しかしイージーフライが取れず(落球や追いつけなかったり)苦労していましたし、最終回にはライトの守備位置から戻れず、おんぶしてもらって帰ってきました。
結局救急車を呼ぶことになりましたが。
本人は相当辛かったことと察し致します。
※画像は一部明るさを調整しました。(管理人)
第10回定期演奏会のプログラムです。
よろしくお願いします。(読めるでしょうか)
第10回定期演奏会
昭和42年1月22日
千葉県教育会館
(千葉市教育会館となっていますが、県です。)
このあと1年ぐらいで取り壊し、県庁前の同じ場所に現在の千葉県教育会館が再建されています。
しかし本校の吹奏楽部はこの後本校体育館、県文化会館や千葉市民会館を使用のため、
県教育会館には戻っておりません。
放送委員会の皆さんには、照明や影アナでお世話になりました。裏に調光器として、スライダック(電圧変化用のスライド式トランス)をたくさん並べたり、色セロファン(ゼラチンペーパー)を、持ち込んでいました。
取り壊し前で、会館には照明設備がまともに稼働していなかったようです。
これまで吹奏楽部の顧問は,石渡先生でしたが、柏市から生実までの通勤の問題で、これを最後に転任されています。この時から顧問が山本先生になります。
プログラムには載っていませんが、ピックアップメンバーの、ビッグバンドで、キャラバンを演奏しております。
アンケートには、驚いた!や、こんなこともできるのか!とか、逆に不要だった!とか、
の意見がありましたが、ほとんどが好意的な意見でした。
譜面台にタスキをかけていましたが、この10回が最後です。
以前は行進の時にもタスキをかけていたようで、体育祭の入場行進の写真に写っています。
県教育会館かなり狭くて身動きが取れませんでした。
皆さん坊主頭。3年生はこの後卒業試験が有ったり、長髪が許されます。
生実校舎移転後、芝刈り教頭こと米田教頭先生を中心にして、整備委員会のメンバーです。
放課後毎週のように芝生を植えていました。
校門からの坂道で、舗装はまだされていません。
小野満さん作曲による、市原市の盆踊り歌です。
歌詞が艶っぽ過ぎる(エロ過ぎ、考えすぎでしょう!)とのことでしばらくお蔵入りになっていました。「娘ざかりが色に出て」等々、当時はそんなことを思う人たちもいたんですね。
カセットです。
小野満先輩がな亡くなった時に、元吹奏楽部員で何かできないのかなあと思い考え、市原市役所から借りて、コピーしました。
残念ながら力不足でここまででした。
現在は市原市内の夏祭り等で掛けられているようです。
豊田氏(44E)投稿依頼です。
昭和44年1月 第12回 定期演奏会 千葉県文化会館 (以下3枚)
指揮 水島数雄先生
花束は20校以上から届いた(さらに個人あても数名あり)が、置き場で苦労した。
受け取るのは講師の水島先生、顧問の山本先生、部長や指揮者を中心に残りを3年生が順番に受け取る取り決めのため、自分の時は女子生徒から受け取れるよう祈っていた3年生もいた。
花束は終盤に集中するため、この本数を受け取るためにかなりの時間を曲間に使うことになり、水島先生には申し訳ないことをしたと思っています。
花束は、受け取り後ステージの花道に置くように決めてあった。
個人あての花束は、自分の足元に置いている。
頂いた団体や学校の定期演奏会があれば部長が訪問し、お返しをしている。
かなりの予算がかかったことと思います。
3年生の合唱 若者たち
この年から1~2年生の伴奏で、3年生の合唱が新しいプログラムになった。
3番に3年生の部活の思いを込めて オリジナルの歌詞を付け加えた。
段取りが打ち合わせと違ってしまい、後ろでメンバーやMCと調整している自分がいます。
昭和43年度 生実校舎、部室での練習。
波板トタンの外壁で劣悪な環境の部室。
部員1~3年生全員 このメンバーのうち1~2年生の数名は退部している。
昭和44年1月 定期演奏会終了後の43年度卒業生追い出し会、瓶コーラの時代。
生実校舎に移転した年から、合宿では校舎に全く設備がなく、食事の面倒を学生ラーメン&大判焼きの貞石食堂さんご夫婦に大変お世話になりました。貞石さんはその後食堂を辞め、ご主人が個人タクシーを始めていましたが、健康を害されてしまいました。ご長男の結婚式まで43年度卒業生と付き合いがありました。
生実校舎最初の食事の準備は2年生(43年度卒)の担当だったので、付き合いが特別に長続きしたと思います。
机は津田沼校舎のからの使いまわし。
卒業後十数年後~昭和57~8頃、44年(43年度)卒の吹奏楽の同期のメンバーが集まりました(4名が欠席)。
中心に山本先生、両隣が貞石夫妻、これだけ集まったのも最初で最後でしょうか?
現在ではかなりのメンバーが住所不明です。
創立33周年、スイングビーバーズと一緒に来られた葉村エツ子さん、もう1枚
同じ体育館ステージ脇の控室での横向き1枚。
撮影者もかなり勇気が必要だったのでは、
プロ歌手の写真を撮らせてもらうわけですから!
豊田氏投稿依頼です。
S44E B組 指揮をしていた加藤君
公開を躊躇したのですが、千工マーチ記念演奏会、2008年1月20日に南部青少年センターのビデオで公開されているので、掲載をお願いしました。
加藤君はブラスバンドをやりたいだけで?千工へ入学、以前から千工の吹奏楽部は有名だったらしいです。
卒業後はこれまた吹奏楽をやりたくて、SONYへ入社、当時はSONY吹奏楽団は有名でした。
本職はトランペット
顧問の山本先生、我々1年生時、新人として赴任、
最初は数学担当でした。
高校野球大会千葉県大会でも指揮をされていました。
襟章は千工内でも校章や襟章以外につけることを許されていたバッチです。
部員は在学時胸につけていました。
ラッパがデザインされています。
黒塗りに金(真鍮)
豊田氏(44E)からの投稿依頼です。
昨年の夏の大会
県立銚子高校との試合の読売新聞の記事です。
千工が新聞で話題にされることはほとんどなく、このように大きく扱われること4~50年に一度あるかどうかの出来事です。