• カテゴリー別アーカイブ 千葉市の情報
  • 水仙が咲いた

    いつもの様に歩きに行きました。今か今かと楽しみにしていた水仙が咲きました。

    感染拡大に付き、密はありませんが、マスク着用で歩いています。

    広場をうろうろしましたが、たった2輪だけでした、けど、綺麗に咲いていました。

    水仙と言うと、未だ感染者0の鋸南町が有名です。
    最近は水仙より頼朝桜を前面に宣伝しています。


  • 事故現場

    いつも歩いている花見川サイクリングコースで18日(日)に自転車同士の事故がありました。
    この日の午前中、管理人が歩いていました。この道は人も自転車もキープレフトです。

    朝日新聞

    今日も通りました。事故現場は天戸大橋の下辺りです。写真は花島観音方面。新聞記事の写真は橋の下辺りから区役所方面の撮影です。

    こちらから走っていた自転車が対向の自転車と接触し、倒れた様です。
    こちら側は150mほどの直線から橋の下手前で若干右カーブになりますので、カーブでふくらんで対向車と接触したのかも知れません。

    道路へ注意書きもあるのですが、飛ばす自転車が後を絶ちません。歩いていても恐いなぁと感じます。

    亡くなられた方のご冥福をお祈り致します。


  • 白い砂浜

    今日、駅ハイ海浜幕張コースに参加をしました。

    海幕駅から稲毛海岸駅までのコースですが、途中の稲毛の浜が白くなっていました。

    昨年4月からの稲毛海浜公園のリニューアル工事の一環だそうです。

    整備事業費は8億1600万円とかです。砂はオーストラリアから購入した様です。


  • 消える戦争遺構

    千葉市内に残る数少ない戦争遺構ですが、気球連隊の第二格納庫だったところを民間企業が長年利用していました。
    今日の朝日朝刊千葉版・消える「気球連隊」格納庫と言う記事が掲載されていました。
    昨年の台風で被害があり、今年9月から解体が始まったそうです。
    解体前の9月19日に見学会があったようで、記事の中で「時代だと思うしかないが、さみしい」と石井先輩のコメントが書いてありました。
    近所の石井先輩も駆け付けたのでしょう。

    訪れたときのビデオです。


  • 千葉市の城めぐり・大椎城

    大椎城(おおじじょう・おおじいじょう)
    土気のチバリーヒルズ裏にある戦国時代の城跡です。
    平安時代末期、上総介平忠常が築城し、大治元年(1126)6月1日、忠常の曾孫・常兼の嫡子、常重が大椎城から新たに亥鼻城を築城し移りました。
    暫くは千葉氏の支城とし残りました。
    この1126年6月1日を千葉市が千葉開府の日としています。2026年は千葉開府900年です。

    15世紀中頃には、土気の酒井氏の支城となり、酒井氏滅亡により廃城となりました。
    現在は私有地ですが、荒れて、地元の方に「中は危ないよ」と言われましたが、入口らしいところがあり、入ってみました。以前には案内板もあった様ですが、現在は外されて見当たりませんでした。


  • 千葉市の城めぐり・土気城

    神亀年間(767年~770年)に鎮府将軍大野東人が蝦夷に対する備えとして「金城」あるいは「貴船城」と呼ばれる城砦を築いたのがその始まりとされていますが、長享2年(1488年)小弓公方足利氏の家臣中野城主酒井定隆が土気城を築いて土気酒井氏の居城となりました。
    天文7年(1538年)国府台で関東征服を掛けた戦いで小弓公方足利義明が戦死をすると、酒井氏は北条氏、上杉氏、北条氏、里見氏と主君を変遷とし、最後は北条氏側として、天正18年(1590年)秀吉の小田原攻めにて滅亡しました。
    そして土気城は廃城となりました。子孫は重臣富田彦兵衛の努力により徳川家で950石の旗本として大阪の陣などで仕えました。子孫の墓は土気城善勝寺曲輪と呼ばれた善勝寺内にあります。定隆などの墓は土気から大網季美の森へ向かう市道でヌーヴェルゴルフ倶楽部金谷郷コース手前の左側、城域西部の地に墓碑が建っています。
    また、善勝寺は酒井定隆が入る前は真言宗でしたが、ある日、東京湾で同じ船に乗り合わせた浜野本行寺の僧日泰上人が、荒れる海を読経により鎮めたことに深く深く帰依し、「自分がもし将来自分が一国一城の主となったら領内の民をみな法華宗に帰依させよう」と自領内を法華経に改宗させた「上総七里法華」と言われています。
    江戸時代初期には「不受不施」を唱え、幕府に取り締まられ破却された寺も多くあります。
    浜野本行寺には日泰上人のお墓が本堂前に残っています。
    歩いていたら100歳になると言うお婆さんに声を掛けられ、善勝寺裏に滝があり、精神病が滝の水を飲んだら直ると言うので、「昔はたくさんの気狂いが来た」と申されていました。
    大網の南玉不動尊の滝かも知れません。

    土気駅→土気城跡→土気城主墓碑

    土気城跡など


  • 千葉市の城めぐり・生実城

    生実町の歴史
    大百池(おおどいけ)西側の高台に室町時代の初め、応永年間に千葉介兼胤の弟、原四郎胤高が居城し以来、小弓(おゆみ)城(小弓御所)として栄えましたが、永正14年(1517)、足利義明に攻め落とされました。
    大百池と小弓城跡の間には八剣神社があります。
    天文7年(1538)10月、小弓城主義明と房州里見氏との連合軍は、北条氏綱の軍勢と市川国府台で関東征服を賭けて戦ったが、義明は戦死し、戦い敗れて小弓城は廃城となった。
    北条氏に加勢した旧小弓城主の原氏は、この地に復帰、新しい城を北方約1キロの重俊院周辺の台地に移し、生実城と名付けました。以後天正18年(1590)、原胤栄(たねあき)が秀吉に滅ぼされるまでの52年間、原氏が統治をしました。
    近くには宅地造成時に発見された大覚寺山古墳、千葉市埋蔵文化財調査センターもあり、どちらも無料開放されています。
    生実城跡には寛永3年(1626)に家康の家臣森川氏俊の三男である森川出羽守重俊が初代生実藩1万石として封ぜられ、旧生実城の一部を陣屋に使用、明治維新まで240年間、13代にわたって統治をした千葉市内では唯一の大名です。
    初代重俊は二代将軍秀忠に仕え老中をつとめましたが、寛永9年(1632)、秀忠死去のさい49歳で殉死しました。重俊の子、重政がその霊を弔うために重俊院(ちょうしゅんいん)を建立しました。
    重俊院下の弁天池は陣屋の外堀跡です。
    重俊院は昭和49年(1974)12月31日早朝に出火、本堂を全焼し、森川氏代々の位牌は灰となってしまいました。現在の本堂奥に歴代の見事な墓碑が並んでいます。

    大百池から小弓城

    生実城跡

    マップ