千葉市支部会報「ちばし支部だより」10号を発行いたしました。

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千葉県立千葉工業高等学校同窓会千葉市支部
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東日本大震災から8年が過ぎました。
当日はたまたま仕事をお休みして自宅にいました。
液晶テレビがグラグラ揺れ、あちらこちらの棚の物は落下、息子の部屋の液晶テレビが倒れ、画面が駄目になりました。
その後は家族や会社へ連絡しようとしても固定電話も携帯も全く役立たずで、何がITだ、役立たずものがと怒っても始まりませんでした。
テレビを付けると、三陸では津波が来る津波が来ると流れていました、時間が過ぎるとその津波の映像が流れました。
右往左往する車を見ながら、「おい、速く内陸部へ逃げろ、逃げろ」と叫んでいました。
テレビから目が離せなくなり、車や家が流され、各地で火の手が上がる地獄の様な映像をただただ見詰めることしか出来ませんでした。
震災後、二度ほど三陸を訪れました。あの被害状況を自分の目で確かめたく訪れました。
ボランティアとかそんな立派なことは出来ません。現地の人から「来てくれるだけで、嬉しい」の一言を貰って安堵するだけでした。
訪れ感じたのは、海岸には巨大な防波堤が延々と並び、国の姿勢は自然に立ち向かうぞと言う様な大型土木工事がメインの様でした。
自然に立ち向かっても駄目だろう、予測もしない以前の津波の倍の高さが来たのに、次に万が一あったら予測出来るのかと思う次第で、素早く逃げることをメインにしろと思いながら海が全く見えなくなった巨大防波堤を眺めて思う次第でした。
2万人近い死者や未だ発見されない行方不明者がいます。母校の全卒業生の数ほどの方です。
爆発原発の処理も遅々として進みません。数十年いや数百年かかるのかも知れません。人類が制御出来ないものの怖さです。
千葉県でも大きな被害がありました。8年と言うと長いですが、歳をとると昨日の様に思い起こされます。
亡くなれた方、行方不明者の方々のご冥福をお祈り申し上げます。
3月10日(日)、君津駅前のホテル千成にて南総支部44回定期総会が開催されました。
管理人(44E)と斉木氏(33C)と二名、千葉市支部代表とし参列いたしました。
総会は28名の会員と23名の来賓参加の中厳粛な中で開催されました。
各支部、高齢化による会員数減の中、南総支部も例外では無いようですが、生実卒が過半数を超える状況は役員・会員の長年の相互努力によるものと感じました。

総会は予定時間前に終了し、懇親会へと移り、支部を越え和やかな歓談が弾みました。

千葉から君津往復の間、斉木氏からは幼少時や津田沼に通った頃の貴重なお話を伺いました。
自宅の前を四街道の志津聯隊に行く鉄道第二聯隊の軽便鉄道が走っていたのを記憶していたとか、都賀のお話などを伺い、千葉市歴史散歩で歩いた付近の昔話などを伺うことが出来ました。
本日は抜ける様な青空、花粉症の方には最悪な日ではないかなとご想像致します。
当家族は今のところは花粉症遺伝子が無いのか、誰一人発症していません。ありがたいことです。
千葉市歴史散歩の続きを歩いて来ました。
前回JR西千葉駅で終えたので、西千葉駅東口から再スタートしました。
改札を出て駅前の階段前にこんなのがありました。

あれ?糸川英夫先生のペンシルロケットではありませんか?西千葉と何の関係?
駅を後にスタート、駅西側に回り、国道14号に下りました。そうなんです。ここから西は昔は海だったので下りたのです。

再び、陸地に戻り、千葉大弥生キャンパス前を抜け、放医研などに寄り道をしながら県スポーツセンターへと向かいました。

県営球場が大変なことになっていました。取り壊し?とガードマンに尋ねたら、大改修だそうです。
母校野球部の応援に駆け付けました。また銚子商-市立習志野の決勝戦なども芝生でゴロ寝しながら見に行きましたね。
梅とモノレール、球場南側には早咲きの桜が今か今かと待ち構えています。

スポーツセンターで折返し、JR稲毛駅へと戻ります。途中、現在の穴川から花見川団地まで一直線にあった鉄道第一聯隊演習線跡地の道路上の穴川橋を抜けます。

京葉工業高校前や千葉女子高前を抜け、稲毛駅にゴールしました。稲毛浅間神社なども巡り、新検見川駅までの予定でしたが、無理でした。

明日8日、会報「ちばし支部だより」10号の発送作業を行います。
会報に含め、4月14日(日)開催の総会の資料なども送付致します。
また来期行事参加アンケートや年会費払込票も送付致します。
今年度からはハガキから封書による返送となりますので、お間違い無い様お願い申し上げます。
また、会員の皆様には会費及び総会懇親会会費の振り込みをお忘れなくお願い申し上げます。
支部活動へのご寄付も賜っておりますので、こちらも宜しくお願い申し上げます。
タイトルの高校は実在しませんが、モデルとなった工高があります。
京都市立伏見工業高校です。
映画のお話は弱小ラグビーチームを全国優勝に導いたお話です。
TBS系で放送されたテレビドラマ「スクール☆ウォーズ」を映画化したのが「スクール・ウォーズHERO」です。
この高校は残念ながら昨年春に統合され97年の歴史に幕を閉じ閉校となりました。
「スクール・ウォーズHERO」は平成15年(2003)の夏休み期間中に本校を撮影地として撮影されたそうです。
予告編
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昨日27日、蘇我コミュニティセンター講習室3にて幹事会が開催されました。
出席幹事は15名、3時間超、支部長・本部会長から本部の状況説明があり、支部として来期第6期の総会に向けての話し合いが行われました。
幹事の皆様、長時間の会議、お疲れ様でした。
津田沼は習志野市、高根公団は船橋市、船橋市に習志野の地名がたくさんあります。
明治天皇が習志野と名付けた栄誉ある地名なんですね。
母校があった津田沼の地から高根公団までの新京成沿線健康ハイキングのビデオです。
当時と違い新京成沿線はすっかり開発され住宅街ばかりです。
今では日本住宅公団の公団名が残る珍しい駅となりました「高根公団駅」
駅周辺の旧団地は老朽化で戸建てやマンションに建て替えが進んでいます。
クラスメートがこの旧公団の団地に住んでいます。将来どうなるのでしょう。
千葉県の方でも亀戸天神はご存じだと思います。
ただいま「梅まつり」の真っ盛りです。
訪れてみては如何でしょう。
JR千葉駅からJR亀戸駅までは電車で40分、550円です。
軍都の遺構巡りです。
今日は青空、新京成電鉄が開催をしている「新京成沿線健康ハイキング」に参加をして来ました。
今回のコースは第73回コースで期間設定コースです。
期日指定コースのときは駅前の公園などでスタート受付をしてからですが、期間設定コースは新京成の駅やホームページに置いてあるコースマップを身ながら自由スタートです。
今回のスタート駅は新京成新津田沼駅。津田沼母校があった地です。

イトーヨーカ堂口から出て、津田沼一丁目公園に寄りました。

ここには母校の記念碑が同窓会の手で建立されています。

記念碑を拝み、スタートし、11kmを歩き、無事に高根公団駅にゴールをしました。
3月7日(木)まで開催をしています。久し振りに訪れてみては如何でしょう。
後日、ビデオで紹介したいと思います。
昨日、「千葉市歴史散歩のビデオを観たよ」と南総支部長谷川氏より君待橋に関する資料が送られて来ました。
整理しましたので、ご紹介致します。
さて、長年、君待橋の道標が母校と一緒に彷徨していたことはご存じのことと思います。
現在は母校から市へ返還されていますが、寒川-検見川-津田沼-生実と転々としました。
なぜ母校と共にしたのかは分かりませんが、平成11年に市に戻されました。
寒川の港校舎移転と共に連れて行かれたのでしょうか。
母校は千葉商業学校(現・県立千葉商高)の跡地に昭和10年に開校しました。

同窓会が建立した記念碑です。一時工事で撤去されていましたが、現在は復帰しています。

この地から海側へ進み、大橋(旧寒川大橋、現在は国道357号線が寒川大橋となっています。)南側の港町交差点側に君待橋之碑が建立されています。
道標もこの地へ戻りました。

10号同窓会報に写真が掲載されています。
千工同窓会報はこのホームページで1~10号、15号はご覧いただけます。(メニュー[千工沿革]-[同窓会報])

君待橋に関しては南総支部会報で取り上げていた様です。
南総だより19号(S58.7.8)

君待橋の由来(フジサンケイリビング編京葉散歩4千葉市より)
その一
その昔(不明)、この橋のかたわらに美しい乙女が住んでいて、川をへだてた向かい側の村の若者と恋に落ち、二人は橋のたもとで恋を語り合ったが、ある日、大雨のため橋が流されてしまいました。娘が放心して対岸をみつめている姿を見た若者は、泳ぎ渡ろうと激流に飛び込んだが、みるみる水中に姿を没した。娘は救うに救えず若者の後を追って濁流へ身を投じた。と言うお話。
その二
治承4年(1180)、千葉常胤とその一族が、安房から北上してきた源頼朝をこの橋に迎えたが、頼朝が橋の名前をきいたとき、常胤の六男胤頼「見えかくれ八重の潮路を待つ橋や渡りもあえず帰る舟人」とよみ応えた。と言うお話。
その三
長徳元年(992)、藤原実方(平安時代中期の貴族・歌人)の歌で、彼が陸奥国に向かう途中に里人に橋の名を問い「寒川や袖師ヶ浦に立つ煙君を待つ橋身にぞ知らるる」と詠んだ。と言うお話。
※当時、西国から東国への交通路は荒れた武蔵国を避け、相模国を抜けるか、東京湾から上総国に上陸するのが主でした。日本武尊もそうですね。そう言うことで市原市付近には土着豪族が西国を真似た古墳が多い様です。
丹後堰
千葉氏の家臣だった丹後布施氏、千葉氏滅亡後に土着した豪族で、江戸時代に寒川村の名主でした。毎年、干ばつに悩まされる周辺農民を救うために、慶長18年(1613)、に佐倉藩主、土井利勝の許しを得て私財を投じ都川の水を分流させるため土木計画に着手。
都川の星久喜と矢作の中間に堰を築いて分流させ、大学病院のガケ下を回って亥鼻山のふもとを通り、寒川、今井方面まで長さ約5km半の丹後堰を完成させました。
千葉支部総会会場、ホテルプラザ菜の花からも間近ですので、母校記念碑と君待橋之碑、総会前後に訪れてみては如何でしょう。