生徒手帳用の写真をスキャンしたもので調べました。
当時は坊主頭でしたね。
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襟章
なんやかんやと断捨離整理をしていたところ、襟章が出て来ました。
生実移転時のE2C、E3Cです。E1Cは何処へ?分かりません。

校章の移り変わりです。現在の生実校の校章がいつから使われているのかは知りません。
移転当時は津田沼のままだった様に記憶しています。



港町、花園の記念碑は旧校章が使われていますが、津田沼のみ現在の校章が使われています。
記念碑担当ではありませんので、何故かは知りません。訪れる度に「なんでかな~」と津田沼最終生は違和感を感じています。

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これに関して、支部会報6号にて前事務局長がご指摘されています。

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歴史散歩のきっかけ
歴史散歩のきっかけとなった根本は千葉市支部の石井進大先輩(24E)のお話でした。
夏の地区暑気払いや冬の忘年会で検見川校舎当時の貴重な思い出話を伺うことが出来、知らないことがたくさんあるなぁと思った次第です。
支部会報にも、その貴重な体験談を書いていただき、当時の苦労などを知ることが出来ました。
管理人は小学校4年生のとき千葉市へ越して来ました。
若い頃は歴史など全く興味はなく、歳を重ねる毎に日本の歴史などに興味を持つようになりました。
このサイトを管理していて、たくさんの母校資料を得ることが出来、先人あって今があるとつくづく感じるようになりました。
会報から抜粋したその貴重な石井大先輩の投稿記事です。先日、新検見川駅から幕張駅まで歴史散歩をしました。
花園中学校前の母校記念碑を見て、貴重な先輩の体験談を共有出来ればと思います。
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あれから8年
東日本大震災から8年が過ぎました。
当日はたまたま仕事をお休みして自宅にいました。
液晶テレビがグラグラ揺れ、あちらこちらの棚の物は落下、息子の部屋の液晶テレビが倒れ、画面が駄目になりました。
その後は家族や会社へ連絡しようとしても固定電話も携帯も全く役立たずで、何がITだ、役立たずものがと怒っても始まりませんでした。
テレビを付けると、三陸では津波が来る津波が来ると流れていました、時間が過ぎるとその津波の映像が流れました。
右往左往する車を見ながら、「おい、速く内陸部へ逃げろ、逃げろ」と叫んでいました。
テレビから目が離せなくなり、車や家が流され、各地で火の手が上がる地獄の様な映像をただただ見詰めることしか出来ませんでした。震災後、二度ほど三陸を訪れました。あの被害状況を自分の目で確かめたく訪れました。
ボランティアとかそんな立派なことは出来ません。現地の人から「来てくれるだけで、嬉しい」の一言を貰って安堵するだけでした。訪れ感じたのは、海岸には巨大な防波堤が延々と並び、国の姿勢は自然に立ち向かうぞと言う様な大型土木工事がメインの様でした。
自然に立ち向かっても駄目だろう、予測もしない以前の津波の倍の高さが来たのに、次に万が一あったら予測出来るのかと思う次第で、素早く逃げることをメインにしろと思いながら海が全く見えなくなった巨大防波堤を眺めて思う次第でした。2万人近い死者や未だ発見されない行方不明者がいます。母校の全卒業生の数ほどの方です。
爆発原発の処理も遅々として進みません。数十年いや数百年かかるのかも知れません。人類が制御出来ないものの怖さです。
千葉県でも大きな被害がありました。8年と言うと長いですが、歳をとると昨日の様に思い起こされます。
亡くなれた方、行方不明者の方々のご冥福をお祈り申し上げます。
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新京成電鉄と津田沼校舎
下記の写真の撮影日時は不明です。多分昭和35年頃かなと想像します。
母校の上に京成電鉄第二工場があります。新京成が京成津田沼乗入れのため直線にし、二代目(昭和28年開業)新津田沼駅(藤崎駅)が見えます。
初代(昭和22年開業)、三代目(昭和36年開業)の新津田沼駅が見えないのと、二代目が見えるので、昭和28年から35年の間でしょう。

昭和27年の地図です。新京成が開業した当時の初代新津田沼は国鉄津田沼寄りだったそうです。
新京成の客をごっそり京成津田沼に運ぶ計画だった様です。

しかし、国鉄津田沼駅より離れたために客が減ったのでしょう、再度三代目新津田沼駅を造り、こちらの路線は終着駅としました。
二代目新津田沼駅から駅名変更した藤崎駅(廃駅)があります。

松戸方面からの下りに乗ると「新津田沼行き」と「京成津田沼行き」があり、間違う方も多かったらしく、昭和43年、新線を廃止して現在の路線にし、四代目新津田沼駅となったそうです。
現在は生実校舎跡地を抜けています。津田沼校舎が生実に移転したことで、いろいろなことがありました。移転後にすぐ路線の変更があったのですね。
現在は新京成路線上にたくさんの団地があり、四代目新津田沼駅での乗降は多いです。
客の7割はここでの乗降です。そんなことで、直線にした当時は乗換が不便で客が大幅に減ったのでしょう。

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日本一の力石
日本全国津々浦々の神社などに力石と言うものがあります。
江戸時代に力自慢が持ち上げて競ったと言う重~い石です。
埼玉県桶川市にちょっと歩きに行き、日本一の力石を眺めて来ました。

これを持ち上げた輩がいるそうです。さて、重さは何キロでしょう?

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1枚の年賀状
今年もコタツに入り、お屠蘇をいただきながらテレビ観戦した箱根駅伝も無事に終わりました。
元日の朝に届いた年賀状の1枚に送り主不明がありました。
表には送り主が書かれていません。

さて、何方かな?
と昨年の年賀状を引っ張り出し、宛名のフォントが同じものを探しました。
そして、裏を見ると謹賀新年の篆刻が同じでした。昨年は送り主のところにはゴム印が押されていました。と言うことはゴム印を押し忘れた様です。
さて、主は当支部副支部長Sさん(30M)でした。一安心しました。
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2018歩き納め
雪が舞う日本海側の方々には大変心苦しいのですが、関東では快晴が続いています。
そこで、昨日、2018年の歩き納めをしました。
旧江戸城(皇居)内堀の門を九段下からグルッと一周巡ってみました。
西船橋から東京メトロ東西線で九段下で下車、九段下から巡りました。
皇居外周は何度も訪れていますが、清水門は初訪問です。
皇居前広場では新年参賀の準備が着々と進み、正月気分でした。
平成最後の参賀とあり、13万人ほどが予想されているようです。今年も無事に目標2,000kmを超えることが出来ました。
来年も元気で歩けることを願いながら年越しましょう。
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平成最後の祝日・天皇誕生日
今日は今上天皇の誕生日で祝日です。
平成最後となる祝日の天皇誕生日です。
では来年2019年はどうなるのだろうと調べてみました。
現在、皇太子の誕生日は2月23日、そのときはまだ平成です。
と言うことで、2019年は祝日天皇誕生日はない様です。
2020年から2月23日が祝日天皇誕生日となる様です。
ちなみに明治天皇の誕生日は11月3日の文化の日。
昭和天皇は4月29日の昭和の日。12月23日を祝日にするかどうかの議論はこれからだそうです。
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千葉駅の変遷
JR千葉駅がリニューアルされ、今では駅なのかショッピングセンターなのか分からないほど駅ナカ充実ですが、昭和38年に現在地に移転したことはご存じだと思います。
戦後、千葉駅の不便なスイッチバックを解消しようと計画でしたが、千葉駅を移転させるには他の駅も移転させる必要があり、なかなか実現しませんでした。他の駅は京成千葉駅や国鉄本千葉駅で、昭和33年に移転しています。
京成千葉駅は中央公園のところにありました。これを移転させないことには国鉄千葉駅は動かせません。
そこで、国鉄本千葉駅を現在地に移転させ、そこに京成千葉駅(現・千葉中央駅)を移動、元機関区のところに国鉄千葉駅を移動し、東京方面から蘇我方面へのスイッチバックを解消させました。
左は昭和27年、右が現在です。

JR千葉駅から千葉そごうに渡る横断歩道先の右側に機関庫の記念碑があります。
※2019年8月現在、同所はビアガーデンとなり記念碑は見当たりませんでした。

旧国鉄本千葉駅があった地である市民会館の駐車場入口に歴代駅長が資金を出し合い建立した「ここに千葉駅ありき」の碑があるそうですが、これは撮影していません。機会があれば写して来ます。
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折り紙
古川さん作成の折り紙はこちらでも紹介しています。
メニュー-書庫-折り紙紹介
または
https://chikou-dosokai-chiba.net/?page_id=3077




































